陀羅尼助丸の歴史と由来

大峯山開祖の「役行者えんのぎょうじゃ」と陀羅尼助

陀羅尼助は江戸時代に、売薬として広く庶民の中にとけこんだ家庭薬である。
しかし実際に胃腸薬に効く薬としては、江戸時代よりも、もっと昔にさかのぼった古代から知られていたにちがいない。山林の修行者であった小角(役の行者)が、修行中にオウバクからの調薬の術を会得していて、病人に施薬として与えたのであろう。
特に弟子の後鬼には、製薬の秘法を伝授したという。その子孫である洞川(どろかわ)の村人が陀羅尼助を製造販売して、これが大峯修行の山伏や山上講社、山上参りの人達によって各地にもたらされ、次第に普及し、薬効とともに有名になったと言われている。
陀羅尼助という名称は、後世になってつけられたのである。

「役行者えんのぎょうじゃ

今から千三百五十年前に、現在の奈良県御所市の吉祥草寺のある地で誕生し、葛城山で修行をした「役行者」は、初めて修験道を大峯山(世界遺産)で開いたとされ、役小角(えんのおづぬ)とも呼ばれていました。
役行者は、岩窟に籠って修行を積んだ結果、「孔雀明王」の呪術を修得し、呪文を唱えては奇跡を起こしました。
孔雀明王とは孔雀を神格化した仏のこと。民衆を救うために蔵王権現を祈り出たり、あるいは、雲に乗り自由に空まで飛んだりして、超能力者としても大活躍しています。
これらの話は古い書物「日本霊異記」「今昔物語」伝説あるいは民話として伝えられています。
役行者の両脇には、生駒の山中でつかまた二匹の鬼が常に前鬼・後鬼として控えており、後鬼は洞川村の祖先とされています。

陀羅尼助の名称の由来

陀羅尼助の名称は 僧侶が陀羅尼経を読誦するとき口に含み、その苦味で睡魔を防いだところから起きるという。
おおまかに陀羅尼の意味がわかりました。では助という意味が気になる。辞典の説明では、専ら読経中に陥り易い睡眠を防ぐ、「助け」の意味とされている。陀羅尼助の「助」は、やはけ薬の意味に解するのが妥当であると考える。
より広義に考えれば、病気を治療して人々を助ける「助」にほかならない。

山伏と売薬

古来、山林修行の山伏達は、民衆の災難や病気を救うために、村々を回り、専ら呪術や加持祈祷を行ってきました。しかし病気には、やはり薬が必要で、何時しか施薬も行うようになりました。
山伏達は古くからの伝承や彼等自身の経験から、薬草木や調薬について、かなり深い知識を持っていました。
また、布教や伝道のために、諸国を無許可で旅行することが出来たので、さまざまな品物を持ち歩いたようです。

山上講詣り

大峯山を開祖した役行者が築き上げた山岳信仰の根本道場である大峯と大峯奥駈道は、現在、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」として認定されています。
昔から近畿地方を中心に全国からの人々が山上講を作り、「大峯山上詣り」(おおみねさんじょうまいり)が盛んに取り組まれていましたが、それは現在も変わることがありません。
ある地域では、男子が成人に達すると数日間をかけ大峯登山をする習慣があり、自然に感謝しながらご祈祷参拝に訪れたといわれてます。
洞川の人々は、大峯さんの恩恵を受けて栄えてきたといっても過言ではありません。

役行者は、神変大菩薩とも仰がれ、また修験道を開いた元祖として、多くの人々に親しまれているまことに霊妙、不思議な方であり、現在でも厚く信仰されています。

人は、山に登って綺麗な空気を吸って、心身を鍛えることが、大切です。
ひたすら山に登るということは
自然に生きること、
自然に感謝すること、
山に登ることは、 自然と一体になること、
私たちも力強く大地に生きる樹や草のよう強く生きていきたいものです。

文楽・落語のなかの陀羅尼助

陀羅尼助が、売薬として販売されるようになったもの、おそらく元禄の終わりと考えられる。
まだ、陀羅尼助の名を見付けてはいないけれども、「文楽人形浄瑠璃」「義経千本桜」に登場してくるのである。
陀羅尼助が民衆のなかには次第に普及し、かなり声価を高めていた証拠と思われる。

文楽(人形浄瑠璃陀羅助)・落語のなかの陀羅の句

「だら助は 腹りはまず 顔にきき」
これは、天保時代の句であるが、顔をしかめるような、陀羅尼助の強烈な苦味をうまく詠みこんでいる

柄井川柳らが享和二年(1801)に編集した「俳風柳多留」のナカの数句
「花を見し 土産に苦し 陀羅尼輔」
花の吉野へやってきて、花より団子、とでも言うところ、帰りの土産には、女房に頼まれでもしたのか、苦いこと一番の妙薬陀羅尼助と、なかなかの家庭思い。なかでも「役行者大峯桜」には洞川の「陀羅助」という商人か登場してくる。

「だらすけを のんで静は 癪(しゃく)をさげ」
源義経とともに、四天王に守られて吉野へ逃げてきた静御前は、道中しゃくが起きて腹痛に悩みつづけた。しかし吉野へたどり着いて、名高い陀羅尼助を飲んでやっとしゃくをおさめることができた次第である。

「先ン達の門トに ぶらりと陀羅尼助」
大峯山に毎年登る御先達も、隣近所からいつも陀羅尼助の無心に、ついつい軒下に陀羅尼助をぶら下げて商売とあいなりました。御先達は、陀羅尼助を持薬として、絶やしたことはない。

「紀伊続風土記」の中には、高野山のお土産として陀羅尼助があげられている。
この書物は和歌山藩が徳川幕府の命令によって編集した紀伊国の地誌で、文化年間(1804~1817)の始めに藩の儒臣仁井田好古が中心になって、編集に着手したものである。
「此れは大峯の陀羅尼助として名高し。此山にても古く製せり。其名は陀羅助なり。古老伝に此薬を製するときは精進潔斎して、口に秘密陀羅尼を唱持ちして手にて薬品を加持す。よりて陀羅尼助の不思議力もて他を助ける故に陀羅助と習俗せしならん。大和当麻寺その他にもこの陀羅尼助あり」
陀羅尼助の名の由来にふれている。

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