「霊峰」と呼ばれる大峯山は今から千三百年前、のちに修験道の開祖となった役小角(えんのおずの)によって開かれたと伝えられています。この大峯山「山上ヶ岳」の麓に位置する洞川温泉。縁側のあるレトロな町並みに、旅館やおみやげ・お食事・だらにすけ屋が立ち並びます。
四季の景色が満載。
夏は涼しいく綺麗な星を眺めながら 夜には星空の下、洞川温泉街を散策 提灯の灯りに照らされた縁側 親子で楽しめる射的屋 美味しい名水コーヒーの味わえる喫茶店 楽しい旅の思い出づくりをいかがですか。
「霊峰」と呼ばれる大峯山は今から千三百年前、のちに修験道の開祖となった役小角(えんのおずの)によって開かれたと伝えられています。大峯山「山上ヶ岳」山頂には、世界遺産・重要文化財である「大峯山寺本堂」があります。近年解体修理の際、わが国で初めて発掘された二体の黄金仏(大峯山頂遺跡出土品・国重要文化財)は、平安時代御獄詣の盛んで あった頃の貴例であり、宇多天皇の寄進である可能性が高いとされています。他にも、藤原道長の登山修法など多くの貴顕や一般の人々が、熱心に大峯山への御岳詣を行いました。修験道の道場とされる大峯山系から熊野にかけては、七十五靡の霊場があり、なかでも山上ヶ岳は、今なお 女人禁制であることで知られています。この山々の尾根を結び、今なお続く修行の道「大峯奥駆道」などが世界遺産となっています。
大峯山寺は、毎年5月3日に戸開式、9月23日の戸閉式に至る143日間本堂の扉を開け、この入峯期間中は参詣者、登山客でにぎわいます。寺は洞川の龍泉寺、吉野の竹林院・桜本坊・喜蔵院・東南院の五ヶ寺が護持院になって維持されており、これら護持院は山上での宿坊として営業されております
清浄大橋には大峯山の各行場や山頂をはるかに望む遥拝所があり、登拝した男性たちの無事な下山を祈る女性たちの姿が多く見られるようになりました。平成12年5月1日には、発菩提心門が創建されました。ここから世界文化遺産に登録された大峯山寺まで約3時間、鐘掛岩や西の覗きなどの修行を行いながら、六根清浄(悟りに向かって赴く心)を育て、日々の雑念を捨て去り、一日を家内健勝祈願に捧げて修行を行う出発点となっています。
修行を案じた役行者の母、渡都岐(とつき)白専女は、役行者の弟子・後鬼の案内で葛城山の麓、茅原から険しい峠や山河を越えて、役行者が山籠りして修行している大峯山に一番近い、洞川の蛇ケ谷まで会いに来ましたが、この谷を渡ろうとすると、一匹の大蛇が行く手を阻み、どうしても渡ることが出来ません。後鬼と替わるがわる何度試みても駄目でした。弟子の前鬼を通じてこのことを知った孝行心の篤い役行者は、悩みに悩んだ末、このままでは母は私を心配して命の危険な山中を何処までも心配して追っかけて来る。蛇ケ谷に庵を建て母に住んでもらい、身の回りのことを後鬼に頼み、私自身が時々母を訪ねることにすれば、母も安心して留まってくれるだろう。早速、洞川の人たちに頼んで母の庵を建ててもらい、母公堂と庵の名を付けました。
修験道の開祖、役行者の母「白専女(しらとうめ)」を お祀りするお堂で、安産に霊験あらたかとされ、 線香の煙が絶えません。
今から千三百年の昔、大峯山の開祖、役行者によって 草創された名刹で、全国修験道の根本道場として信者 、登山者の必ず゜訪れる真言宗醍醐派大本山。 本堂にはご本尊の弥勒菩薩をはじめ、役行者、聖宝理源大師、弘法大師、不動明王が祀られています。境内にある竜の口より湧き出る清水をたたえた大峯山中第 一の水行場があり、全国信者の尊崇を集めています。
ありがたや 親よりうけし旅衣 洗ひきよむる
龍泉の水本堂下の「なで石」は軽くなったり重くなったり・・・・是非体験を!八大龍王堂は、近畿三十六不動尊第三十一番の霊場でもあり、毎年10月第二日曜日の大祭はにぎやかに行われます。
日照山、または七尾山と呼ばれて、役行者による大峯山修行の起源となった山岳宗教発祥の霊山と云われています。今から千年前、この大峯の蟷螂の岩屋と云うところに二匹の大蛇が棲息し、住民や登山の諸人を苦しめていました。修験道中興の祖・聖宝理源大師がその雄を退冶しましたが、一匹が山中の洞窟に逃げ込みました。すると奥の院に摩王大権現が現れ、一般諸人が洞窟に近づくのを禁じ、龍神を守り神とすることを厳命したため、以後世諸人が近づくことはできませんでした。昭和二十七年に再び開山され、奥の院への入洞が許されるようになったと云うことです。
戸開けは大峯山と同じであり5月3日。戸閉めは9月23日
女性の女行場ともいわれ一日修行参拝が多い。参拝登山時間は往復約3時間程度 最終の天空の洞窟の胎内くぐり修行に入ります。行場は好評で一年に一度参拝する方が多い。
見事な孔雀明王が祭られています。
かつて皇位継承事件で窮地にたたされた大海人皇子は、大和朝廷を守護する神々のふるさと吉野を訪れ、天心地祇に勝利を祈願して琴を奉じました。すると、その音に乗って唐玉緒をまとった天女が現れ、戦勝の祝福を示しました。
この天女は、役行者が弥山山頂に祀ったとされる弥山大神でした。これに力を得た皇子は、壬申の乱に勝利を収め、即位して天武天皇となりました。その後、天皇がこの天女の加護に報いるため、麓に神殿を造営し、(天の安河の宮)とされました。これが天河辯財天社の始まりだと伝えられており、天川村の名前の由来となったとされています。
御祭神は中央に弁財天、右に熊野権現(本地仏、阿弥陀如来)左に吉野権現(蔵王権現)がお祀りされており、神仏習合の形態を今も残しています。
また、神社は吉野熊野本宮あるいは吉野総社として、大峯修験の要の行場とされ、古来、高僧や修験者たちが集まるところでした。
特に弘法太師空海の参籠後は、大峯参り、高野詣と併せて多くの人々が訪れるところとなりました。日本の三大弁天の宗家とされるこの天河大辯財天社は、水の精、辯財天女を祀ります。
また、辯財天女は音楽や芸能の神様としても有名です。神前での能の奉納が、毎年行われ、世阿弥も用いたとされる阿古武尉の面、能楽草創期からの価値の高い能面、能装束が多数奉納されています。
又、近年芸能の神様・パワースポット等の関係で音楽関係・ミュージシャン・芸術家などの人気で全国からの方々が訪れている。
當山に安座されます八大龍王尊は、役行者神変大菩薩が今より千三百有余年の昔、続いて山麓洞川の泉のほとりに龍泉寺を草創された時、大峯一山の総鎮守としてお祀りされた龍神様です。その後、弘仁三年(八一二年)、空海聖人(弘法大師)が大峯山上ヶ岳での修行成満の後、池のほとりに一字を建立、日本最初の八大龍王尊として勧請されました。爾来、大峯山修行者の峯中安全、五穀豊穣、家業繁栄の守護神として尊崇をつめています。
大峯山開祖である役行者が島流しにされ、のちに晴れて無罪となり大峯山に戻ったとき、村民たちが熱狂的に出迎えた様子を鬼踊りであらわした行者まつりは、大峯山随一の奇祭として大変有名です。